ふらふら散策

ふらり 名古屋 名古屋城 散策②

名古屋城 本丸

みなさま、こんばんは。本日も風が冷たく寒い一日になりましたね。コロナも急増も気になりますが、感染予防をしながら暖かくしてお過ごしください。
本日は昨日に引き続き、名古屋城の散策にお付き合いください。

離れた場所からの眺めは、天守閣と小天守閣の並びは雄大で、なんとも言えない絶景を拝めているのだろうと感動です。本当に美しい!!しばらく、立ち尽くしてしまいます。
この全体の色彩もいいですよね。
これが青空だったら、もっと映えるだろうになぁ。

ここで、名古屋城は?

歴史

関ケ原の戦いに勝利した徳川家康が慶長14(1609)年豊臣方への備えとして名古屋城の築城と清須から新城下への街ごとを移転させることを決め、新たに造られた碁盤割の街が今の名古屋の原型となり、町や橋などの名前がそのまま残っています。
慶長15(1610)年名古屋城築城にあたり、加藤清正、福島正則ら西国大名20家に土木工事をさせました。天守や御殿の建築工事は小堀遠州、中井正清らに命じ慶長20(1615)年にほぼ完成しました。尾張初代藩主九男 義直が入り、それ以降名古屋城は御三家筆頭尾張徳川家の居城となりました。
名古屋城は昭和5(1930)年、城郭建築で初めて国宝に指定されましたが、昭和20(1945)年の名古屋空襲により本丸のほとんどが焼失しました。昭和34(1959)年天守閣が再建されました。再建された鉄骨鉄筋コンクリートの天守閣は、外観は昭和実測図に基づき再現され、内部は焼失を免れた本丸御殿障壁画や武具などが展示されていました。

現在は残念ながら、耐震性が低いことから天守閣への入場はできません。

名古屋城 天守閣 みどころ

本丸

本丸御殿からすすみ、更に天守閣へ近づきます。遠くからの眺めとは違い、大きさに圧倒されます。金の鯱も確認できます。金の鯱は、南側が雌で、北側が雄なんですよ。大きさも違います。

天守閣の土台となる石垣付近に近づきますと、組まれた石垣の高さ、その上にそびえたつ天守閣、ここにこないと絶対眺められない景色です。

さらに、進んでいきますと脇に「御殿椿」がみえてきます。
本丸御殿南側の銘木「御殿椿」から接ぎ木されたと伝わる椿。三月から四月にかけて八重大輪の白花を咲かせるようです。原木は空襲で焼け、焼けた幹の下から新芽が伸び生き続けたが徐々に衰弱し今は根株だけが残っているそうです。神秘的です。

その先の「不明門」をくぐっていきます。土塀の下に設けれている門で、本丸北側と御深井丸をつなぐ門ですが、厳重に施錠され「あかずの御門」と呼ばれていました。左右には槍の穂先を並べた剣塀が続きます。空襲で焼失し昭和53年に復元されています。

御深井丸へ

「不明門」を抜けて振り返りました。本来なら、天守閣に繋がるあのエレベーターで‥内覧したかったなぁ。でも、違う方向からみると、天守閣と繋がる不明門で別の顔にみえてくるから不思議。

天守閣北側を眺めます。ここではお堀から伸びる石垣も見物です。石垣が増えた分、大きさが増し増しに感じます!

屋根の重なり具合も美しいですよね。金の鯱みえます。

「不明門」を出て正面には「天守礎石」が見られます。
空襲で焼失した旧国宝天守礎石で、地下穴蔵の地盤の上に置かれ巨大な天守を支えていました。長く焼け跡に残っていたのを天守閣再建にあたり今の場所に移し敷設状況が再現されています。

また、その奥には不思議な石室があります。
「石棺式石室」で島根県松江市山代町にあった団原古墳の石室で本来床石があって手前に羨道を備えていた。古墳時代後期のもので出雲地方独特の横穴式石室。とありました。
礎石とはマッチしていますが‥。

更にその奥にずんずん行くと、外堀から市内を眺められました。

北西側からの眺めは石垣から天守閣が2面きれいにみえます。どこから見ても足を止めて時間を忘れちゃいます。

まだまだ続きます 名古屋城

2回ほどでまとめたかったのですが、お姿、天守閣をみなさまと共有したくって‥。
天守閣以外にもふらふらしてますからね(笑)出先でまさかのスマホのバッテリーが切れる経験にも遭遇してしまい、写真を無茶苦茶撮ってました。興奮?感動?
地元にこんな素晴らしいところがあったのに、今まで訪れていなかったことに後悔。でも、こうやってブログを始めてことで感動する場所がまだまだあるとわかりました。
こうして、次回もみなさまには名古屋城の続きをご案内することになります。
もうしばらく、名古屋城と私にお付き合いください。
本日もありがとうございました。

朝晩は冷え、道も凍結しているところもあるようですので気を付けてくださいね。